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みんなの人権

他人の痛みへの想像力

 いじめにまつわるショッキングな出来事が目につきます。2011年にいじめを受けた大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が自殺してから1011日で7年となりました。市役所で記者会見した生徒の父親は「いじめは目に見えにくいもの。大人が発見して救い出してほしい」と改めて、いじめの根絶を訴えていました。また、全国の小中高校などで2017年度に414378件のいじめが把握され、前年度から約9万件増えて過去最多となったことが1025日、文部科学省の調査で分かったとの報道がありました。

文部科学省によれば、認知件数の増加は前年度調査から「けんか」や「ふざけ合い」などもいじめと捉え、早期に対応しているためで、「以前に比べ学校現場がことさら荒れているわけではない」としています。しかし、一方で「重大事態」は増加しています。

 いじめで注目を集めるのは、当事者である「いじめっ子」「いじめられっ子」ですが、教室で大多数を占める傍観者となっているその他の児童・生徒の存在というのが気になります。恐ろしいのは、いじめに気付いていても、だれ一人として「もうやめよう」と言い出すものが無く、見て見ぬ振りをしていることです。そこには、相手の痛みに対する想像力が欠けているからではないかと思うのです。

 人間の社会は本来、この想像力によって成り立っているところが大きい、この想像力が他人の痛みを引き比べてとらえ、自分勝手な行動にブレーキを掛ける基になっているように思います。

 「惻隠(そくいん)の心は仁の端」と説いたのは孟子ですが、彼は惻隠の心(いたわしく思う心)がすべての人に内在するものであることを強調したうえで「惻隠ノ心ナキハ人ニアラザルナリ」と断じています。それなら他人の痛みに対する想像力を欠くのもまた「人ニアラザル」ものではないでしょうか。

 各々が、自分の権利を声高に主張する時代でもあります。自分の権利を貫徹するためには、時には他人の権利を侵すこともあえて平気ですることもあります。他人もまた自分と同じく一個の権利主体であり、自らの権利を主張しうる存在であることを頭では理解していても、色々な理由付けをして、相手の権利を強引に無視するのかもしれません。

 こうして、「自分さえよければ」「自分の気持ちさえ満足できれば」という流儀がまかり通るようになってきています。そういう流儀が自分に正直であるとか、自分に素直であるとか、むしろ肯定的に評価される様なご時世でもあります。

 基本的なところで他人の痛みに対して想像力を働かせることができるところでは、他人の人権を尊重することにつながっていくのではないかと思うのです。

 まず「想像」すること、相手のことを知ること。想うこと。そこから人と人とのつながりが生まれる。互いが人権を尊重し合っていきていくために、一歩ふみだして行動してみませんか。

JA滋賀中央会発行『みのり』より

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